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歴史 | history of housen-ji 
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​塩古八景畧圖

明治​42年川上村 瀬尾老人献額

歴史 history

八街市は一般に近世、明治以降に開墾された地域という印象がありますが鹿島川の上・中流域は平安時代すでに白井庄と呼ばれる荘園が成立していました。その時代の領主は比叡山延暦寺でありましたが、実際の支配は白井次郎常親を祖とする白井氏が行っていました。白井庄には多くの郷や村があり鹿島川の支流弥富川に沿った根古谷・岡田・七曲・西御門は塩古郷と呼ばれ、弥富郷とともに白井庄の中心的な地域でありました。

 

南北朝時代になると、弥富川に沿った地域は真言密教の拠点となります。

かつて佐倉市内田にあった弥勒寺の承隆律師たちは、塩古六所宮という神社の「大般若経」を復興するため、三百巻あまりの経典を書写します。その中心となるのが壇所(僧侶の学問所)であった勢田栄楽寺の密教僧たちでありました。

これらの寺院や神社は既にありませんが、現在、神崎町神宮寺の所蔵となっております「大般若経」の奥書や教典を収めた唐櫃に古く隆盛を極めた鹿島川流域の寺院や僧侶の名を知ることができます。

根古谷城は自然の台地を利用して築かれた中世城郭であり千葉氏の直臣円城寺氏の居城でしたが康正元年(1455)原信濃守によって落城しました。法華の信者であった原一族やその後の粟飯原氏によって弥富そして塩古の地は日蓮宗へと帰依していきます。

 

 

 

 

開山 妙高院日意上人  [本山松戸本土寺第九世]

二世 法宣律師日税上人  [日意上人弟子にして曽谷氏末裔]

日意上人康正二年(1456)春、経巻祖像を牛に乗せ法螺貝法鼓を鳴らし塩古の郷に至る。維時城主原信濃守の御子息助影殿重病で諸方の祈願も験しなし、薬石其の功無く然に信濃守上人の高徳を仰ぎ是の地に至を悦び上人を請いて助影の病を救はん事を願う。上人の曰く除病延命を祈らんには此日蓮大士の尊像を城内に守り奉り公よろしく信力無二に祈らば、たとえ定業なりとも延命すべし。此教に従え宗祖の像を守り奉り信心おこたりなく御祈願ありしかば命終と思し助影たちまちに平癒せし。

信濃守大に歓喜踊躍して、翌長禄元年(1457)丑の仲春に一の精舎を建立し是れ尊像を安置し日意上人を開祖せられたり。

即ち今の法宣寺これなり。日意上人は御祈祷経を書写し信濃守は改宗し家に伝わる処の家宝仏舎利を五重の宝塔に入れて報恩のため永く当寺に納めたり。

其後享禄四年(1531)卯年に当つて祖師の尊像宮殿を再興す。是即妙法長久広宣流布の意を以て妙長山法宣寺と言うなり。

法宣寺と日意上人  housenji and nichii​ shounin

​(参考:八街の歴史)

​(法宣寺縁起より)

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​妙高院日意上人布教絵図

白い牛に跨り布教する日意上人、背負う厨子には生御影のお祖師さま

生御影日蓮大士 statue of nichiren shounin

当寺に安置される御尊像は宗祖三十九歳のお姿を影された御像であると伝わります。曽谷氏の末裔である当山第二世法宣律師日税上人の家に代々伝わり、創建のとき精舎を建立し御安置されました。

『生御影(しょうみえ)のお祖師様』『塩古(しおご)のお祖師様』と慕われ、5度の江戸出開帳が行われています。

そもそも此の尊像当寺に安置する由緒は当寺第二祖法宣律師日税上人曽谷殿の末裔にして日意上人の御弟子なり。或時日意上人日税上人に告て云く、予此度隣国を弘通せんと欲す。法華一部の外本尊とすべき物なし。是によりて汝が感得の宗祖の像を何卒予に得させよとありければ日税上人曰く宗弘のためならば何ぞ惜しまんとて則日意上人に譲り給う。日意上人大いに歓喜し如意宝珠を得たるが如く、日意上人は爾来是の尊像を奉りて隣国を弘宣し給う。

​(法宣寺縁起より)

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​昭和初期の法宣寺境内

桜の木が数本植えられただけで閑散としています。​右の大きな屋根が本堂、左のお堂が祖師堂です。

諸堂の様子は今とさほど変わりませんが本堂の屋根が茅葺きです。

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​戦時中

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​戦時中

​供出される梵鐘

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